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BLOG 【かえる日和】
5.62020
ハンドパワーです
1995年に新卒で就職した会社は、福井に本社を置く繊維メーカーだった。
そう、美大を辛くも卒業した私は晴れてサラリーマンとして、企業に所属するデザイン室に籍を置き、その場所で10年ほどを過ごした。
(途中色々あったけど、ここは割愛)
肩書は企画開発室に所属する一スタッフ。デザイン部門とかそういった部署があったわけではないが、便宜上そう呼ばれていた。
当時、デザインの世界も徒弟制度の色合いが濃く残っており、言ってみれば、デザインスタジオを主宰する先生と呼ばれるような立場のカリスマがいて、以下アシスタント的な人々がその枝葉となる、という構造が成り立っていた。
だが、私の所属していた組織では少なくともそういったヒエラルキーは無く。各個人がそれぞれ担当を持ち、割と自由に過ごせる環境にあったと思う。
そのデザイン室は自動車産業向けにシート表皮の開発を行っており。メーカー選考により試作品が採用されるまでの提案業務を担当していた。
自動車メーカーの採用担当は具体的にこういうものが欲しいと言ってくることは少なく。先方が作成したコンセプトパネルの様なイメージを基に、こちらでネタを膨らませて色々なバリエーションを開発してゆくのが常だった。
誤解を恐れずに言えば、それはお笑いでいう大喜利の様なもの。
お題目に対していかに気の利いた面白いことを言えるかが勝敗を決める。
良いデザイン企画を生み出す同僚たちはそのネタ作りがうまかった。
自分自身の引き出しの多さもさるところながら、外部から持ってくることにも長けていた。
前述のデザインスタジオの先生やプランナーさんに委託して、デザインの幅を拡げてゆく人もいた。世のトレンドをうまくリサーチし、コンセプトを組み立てるのが抜群にうまい人もいた。
しかしながら私は、どうもその辺で面白いことが言えず、なかなか前に出ることができなかった。ネタに詰まって委縮するばかりで空回りしていた。
思い出されることがある。
自分はある時期から絵を描くことにコンプレックスを抱くようになっていた。
理由は単純。好きなだけで描いていた時と違って美大受験を境にコンペで勝つことが正義となり、周りのすごさに圧倒され続けてきたからである。
皆、そういうものを乗り越えて自分なりの表現力を獲得してきたはずだから、ただ単に私の努力不足だったのだけれど、それでも何とかだましだまし自分なりの方法で大学時代はやり過ごしてきたようにも思う。
でも、社会人になって、ちょっとしたことでかつての弱虫が姿を現してしまった。
思い通りに好きなものを表現できなくなっていた私は、ただただ委縮していた。
自分が本来目指していた、工業デザインというイメージからかけ離れているように思ってしまっていたことも災いしていた。
転機が訪れたのは、企画を考えることに詰まり、もはや万策尽きたと思っていた時。
その時は、ごみでもなんでもいいからとストックされているサンプルを求めて協力会社の工場に出向いた。
そこの開発担当の方にお願いしていろいろ出してもらったところ、やはり見合うものがなく途方に暮れていた。
すると、「じゃあ今作りますか」と動いてくれた。
工場の試作室に通されてみたものは、天井まで伸びた経糸が巨大で繊細な琴の様にも見える自動織機だった。
シャトルといわれる横糸を通すものが横方向に素早く動いている。よく見ると両端で機械がうまくキャッチ、リリースを繰り返していた。
紋紙(織物の柄を決める型紙の様なもの、大昔のコンピューターが排出するパンチされた紙の様なイメージ)がすごい勢いでパタパタとめくれてゆく。
機械をいじるのが好きだった私は、一瞬で心を奪われた。
そして、当たり前すぎる事実に気づいた。
そうか、テキスタイルは工業製品だった。
デザイン室でスケッチやコンセプトパネルに囲まれていたから、ごく基本的なものが見えていなかった。ハタから見れば当たり前の事が、当事者は目くらましで気が付いていなかったのだ。
その場で糸種や色等をいろいろ変えて試し織をすると、全く表情の違うものが織りあがっていった。
頭で考えてもわからないときは、手を動かして作ればいいんだ。
自分の中で散らばっていたピースがはまっていったかのような感覚だった。
いまでも、うっかりするとすぐに周りが見えなくなってしまう。
怖いからって目をつぶったままいきなり走り出してしまう。
悪い癖である。危ないので是非ともやめてほしいものだ。
そんな時は、落ち着いて手を動かしてみよう。
きっと打つ手があると思うから。
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