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BLOG 【かえる日和】
5.212020
モノと対峙す
モノとの出会い。
モノを大切に愛でる気持ち。
モノにまつわる思い出。
日本人に限らずとは思うが、どうやら我々は形あるモノ、製品に対して感情をそそぎ込む傾向があるように思える。
ペットに見立てて愛称をつけたり、擬人化したり、ついには神を宿してしまったり。
工業デザイン界の重鎮であった、故 栄久庵憲司先生(※)は、数々の名言をのこしている。その多くは共通していて、私なりに意訳すると、「物作りはモノに対して愛しさや祈りを込めて命を吹き込む行為」的なことをおっしゃっていた。
作り手側がそういう気持ちなのだから、使う側が愛着を持ってしまうのはある意味しかるべき事であろう。
ただ、皆が皆そうではないことも知っている。製品に対してフラットな感情で接することも間違いではない。また、それが必要な場面もある。
話の流れでは、私はモノに愛着を持って接する人間であると言いたいのだろう思われただろうが、実はそうとは言えない。
というかあえてそうではない方向に仕向けていた。
なぜかというと、色々と変化する状況の中では、モノに対するこだわりを持つことが生活に良くない影響を及ぼすのでは、と言う猜疑心に駆られていたからである。
また懲りずにパソコン関連の話で恐縮だが、
この製品群に関して求めるものは機能一点張りである。
一時期デザインにこだわった製品を使っていたこともあるが、
すぐに旧くなってしまい、なくなく手放す羽目になってからは、また残念な気持ちになりたく無いためにあまり気にかけなくなってしまった。
物事をシンプルにして状況の変化に対応できた方が暮らしやすいし危機管理的にも有効、とばかりにごちゃごちゃと持ち合わせてきたものを整理しだしてからは、なるべくフラットに、愛情を持ちすぎないようにモノに接するようにしていた。
何故かというと、一番は金銭面で効率が上がるから。
もう一つ上げるとすると、やはり時間の問題。
そちらの面でも効率的になります。
そういったことを試みて、当時はある一定の成果はあったかのように思う。
少なくとも、子供も小さく家族が一緒に成長する過渡期においては、変化のスピードに合わせてその必要もあった。
最近、それがなんとなくゆっくりとスピードを落としてゆき、次の駅へ向かっているかのような感覚になったころ、以前の何かに執着するような感覚が戻ってきたような気がする。
今の世界の状況もそういったことを考える後押しをしてくれている気もする。
いまはもう、モノに対してフラットな感情を持つことよりも、愛情をぶつけるような事に価値を見出すようなステージに移行しつつあるのかも知れない。
作り手の気持ちに応えていなかったわけではなかったと思うが、その多くがビジネスライクだったのかも知れない。
だが、今からならもっと日常とリンクするようにモノづくりと共鳴しながらその世界に関わっていけるような気がする。
時間がたってなんとなく巻き戻ってきたけど、全く同じ様なわけではない。
若干のゆるみがあるかのようだ。ちょっと伸びてしまったバネの様にゆらゆらと揺れている。
緩やかに共鳴してゆく。
そんな都合の良いことを考えつつ、忘れかけていた感情を取り戻すべく、以前はどんなことに取り組んでいたのか。
過去の事例を紐解きながら、次の一手を模索してゆきたいと思う。
(※栄久庵憲司 日本のプロダクトデザイナー GKデザイングループ創設者
日本にデザインという概念がなかったころから、その意義、提案を行い社会に広く定着させた第一人者。キッコーマン醤油瓶をはじめ、ヤマハ発動機、鉄道車両など多数)